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Channel: 天職起業で「人生は逆転できる!」講演家・作家
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高額納税起業家の軌跡③

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現実と情熱の間   高額納税日本一になった山川雅之の創業物語③

話を進めるにあたって、そのころの私が、いかに世間知らずの起業だったか
ということについてもう少し触れておく必要があるだろう。


所属するクリニックの院長に、独立の旨を伝えに東京に出向いた私は、その足で渋谷の街へ向かった。
この街はなんとなくエネルギーを与えてくれる。
世の中にはこんなにいっぱいのビジネスがある。
起業を決めた私にとっては見るものすべてが、刺激的だ。

西武百貨店に入ると、すぐに、日本最大手の化粧品会社のロゴが目に入った。

やっぱりかっこいい。

そのロゴにあこがれて、先日なけなしのお金を払って、クリエーターにCIを発注したばかりだ。


次の瞬間、私は、そのショップの販売員に声をかけていた。
何を思ったのだろう。今でもその行動はよくわからない。

「すみません。今度、福岡で美容外科を開業するんですけど、御社と業務提携したいと思いまして。商品開発の担当の人とつないでいただけませんか?」


30
分ほど粘ってみた。
隣でメイクを体験している女性客と目があった。

気まずい空気が流れている。

この場が自分にふさわしくないことをほんの少し理解した。

 

時は流れ、十数年後、上海の美容ビジネスに、その会社の会長から出資の意向を伝えられた。
会社の名前を聞くまで、そんなエピソードはすっかり忘れていた。

現実と情熱の間のギャップを埋めるためには、それくらいの時間は必要だったのかもしれない。

それほど大きなギャップだったのだ。

 

起業に最も必要なのは、人、金、物などの自分の置かれた状況ではなく、
情熱だと言い切っていい。


そこに悲壮感はなく、むしろ現実を楽しむ姿勢がある。

 

重圧

故郷(米子市)に帰り父親に独立の報告をした。
父親は地元で小さな設備業を営んでいた。

私が育つプロセスでは、景気のいいときもあったように思うが、
その頃には、既に父親一人で、たまに以前からの付き合いのある知り合いの仕事を受けるくらいであった。
つまり、決して余裕がある状態ではなかった。

父親は特に反対することもなく、
「まあ、失敗すれば、自宅がなくなるだけだ。」といって、

自宅を担保に地元の信用金庫から、
会社の事業資金として
3500万円の融資を引き出してくれた。

父親には、徹底した放任主義で育てられてきた。いつも報告するだけだ。

地元の国立の医学部に進学を決めたときも、「なんだ。東大じゃないのか。」といわれたくらいだ。

ともかくはじめてまとまった事業資金を手にすることができた。
これを見せ金に、国民金融公庫、福岡市の制度資金などで、総額5000万円の用意ができた。
ノンバンクからのマンション融資があったので、28歳にして借金が1億円に達することになる。
失敗すれば、父親をはじめ、多くの人に迷惑をかけることになる。


当時好きだった言葉に「用意周到な楽天家」という言葉がある。

何度もこの言葉に助けられた。

考えられるできる限りのことをやりつくして、あとはくよくよしてもしかたない。

このときも自分にそう言い聞かせたのだが、
事の重大さを自覚するとともに、それまで経験したこともない、なんともいえない重圧が胸にのしかかってきた。


小さな賭け

開業候補地の選定に入った。
とはいえ、なにしろ実績のない若者、そして当時は美容外科の社会的イメージも良いとは言えず、物件の絞込みは難航した。

「包帯をぐるぐる巻きにして出てこられては困る。」
「病院の臭いがするとほかのテナントに迷惑がかかる。」

と、もちろん誤解から来るイメージだ。


そもそも美容外科って何するところだ?それは医者の資格が要るのか?

ほとんど年配の男性が占めるテナントのオーナーには理解できない領域でもあった。
しかし、若い女性のニーズは確実に広がっていた。

このとき心に誓った。

「必ず、美容外科の社会的ステイタスを上げてやる。」

 

どうしても天神という地名にこだわった。天神といえば九州一の商業の中心地である。
その中で、とうとう一等地の物件を見つけた。
すぐにでも契約したかったが、手元資金は少しでも残したい。

テナントを借りて、内装や設備を入れれば、
開業後の運転資金は
3か月分しかなかったのだ。

既に交渉で、家賃は月
90万円のところ72万円まで下がっていた。
私はここで賭けに出た。

「今日の夜11時まで待ちます。持ち帰っていただいて60万円でOKならお電話ください。」

交渉担当者には、明日の朝一に別のテナントで契約することをにおわしていた。
もちろん、そんな話はできていない。

電話帳には、既に交渉中の住所で掲載申し込みを済ませてしまっていたのだ。

 

11時、電話が鳴った。

振り返れば、当時はバブル後の不動産不況のピークだった。
物件は借りる側にとってかなり有利に交渉できる状況だったのだ。

不況は絶好の起業の好機だ。

 

その後、そして今でもこの手は良く使う。

交渉では期限を区切ることが大切だ。

 

最初の、そして小さな賭けに勝った。

運がすこしずつ味方をしはじめた。

 

一通の内容証明

開院を目前にして、一通の内容証明が届いた。

「広告を拝見しました。御社の聖心美容外科という名称は、
当院の保健所登録名称になっています。
直ちに使用を差し控えてください。
勧告に従わない場合は...」

そんなばかな。
開業に先立って、保健所に事前相談をすると共に、
近隣の美容外科に開院の挨拶に回っていた。

クリニックの通りに面して、2件ならびにAクリニック(仮称)を開業している先生がいた。名前をH氏(仮称)という。

昔、勤務医として福岡院の院長として赴任したときに、
副院長として同じ職場にいたが、その後退職し、
私に先駆けてまもなく独立した。

役職はともかく、年は私より上だったので、挨拶回りをしたその日も、
開業医の先輩として忠告をしてくれた。

「あまり、開業に先立って、クリニック名など言わないほうがいいよ。S美容外科とか、Kクリニックに嫌がらせされるから。」

SとKといえば業界1位、2位のクリニックだ。

そんなクリニックが、できたばかりの聖心美容外科を攻撃するだろうか?
信じられなかった。

世の中がそんなに悪意に満ちているとは思えない。
「むしろ相手にしてくれるなら光栄なことです。」
私はそのH先生の忠告を聞き流した。

しかし、彼の忠告は別の形で現実になった。

 

「勧告に従わない場合は、損害賠償の請求をします。聖心美容外科Aクリニック院長H」

あのH先生からだ。


医療法上、クリニックの登録は開設後1ヶ月以内に行うとなっていた。
あわてて保健所に問い合わせた。

「はい。Aクリニックさんは、数日前名称変更の登録をされまして。
聖心美容外科Aクリニックとなりました。」

「おかしいじゃないですか。事前に相談していたのに。」

「はい。私もおかしいとは思っていましたが、
手続きを受けない訳にはいきませんので、先方とよく話し合ってください。」


ためしにNTTの番号案内に“聖心美容外科”で問い合わせてみる。
「天神の聖心美容外科で2件見つかりましたが、どちらになされます?
聖心美容外科Aクリニックでよろしいですか?」


その後も、我々のクリニックを予約した患者さんが間違えてAクリニックに行き、
「あれ、聖心美容外科じゃないですか?」と聞くと受付の女性が、
「はい、“聖心美容外科Aクリニック”です。お持ちしておりました。」
と対応するという。

無断キャンセルされて手術をしていないはずの患者さんから、
手術後のクレームの電話がかかってきて、
それに気づくといったこともしばしばあった。

 

すぐに弁護士に相談し、内容証明を送り返した。
開院に前後し、その後何度かやり取りを繰り返した。

弁理士にも問い合わせてみたが、幸い商標登録はまだされていなかった。
ロゴマークと共にサービスマーク登録を申請した。

数ヵ月後、実態を反映して、勝ち目がないと思ったのか、やがて先方が折れた。
しかし、その後も広告表現のパクリなど、彼の嫌がらせは続いた。

あたかもそれが彼のプレゼンスを示す最高の手段であるがごとく。

いつまで続くのだろう。私は思った。

挑発に乗っては負けだ。共倒れしてしまう。

診療理念に掲げた、
美容外科全体のステイタスを上げるという志を実現するためには、
このようなレベルでの戦いを続けているわけにはいかない。

もっと力をつけなければ。。

 

時は流れ、我々が東京に進出して隆盛を極めているその頃、

彼のクリニックがつぶれたことを風のうわさで聞いた。

思えば、彼は私の可能性と実力を認めて、脅威と感じた最初の人だったのかもしれない。

 
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